TUMUGU代官山のコンノは、過去にMaruと同じ大手サロンの系列店に所属していた期間があったが、2016年頃に退社した後、フリーランス美容師として渋谷の面貸しサロンで働き始めていた。
2018年からは、表参道にあったMaruの面貸しサロンでのボリュームアップエクステ開発に参画し、ダブルワークをスタート。
エクステ開発では、品質向上や商標登録、動画編集に至るまでさまざまな業務に携わった。打ち合わせも多く入っていたため、渋谷のお店と表参道のお店、2軒のあいだの坂道をチャリで爆走する生活を送っていた。
2020年の半ばから、コンノはTUMUGU代官山へ加入(前回記事を参照)。そこからわずか約1年半後の2022年1月、多くのお客様に支えていただき、同店はホットペッパービューティ(HPB)アワード・ベストサロン部門シルバープライズを獲得した。
さらには、2023年にはついに同アワードのゴールドプライズを受賞し、【1~2席サロン売上高・日本一】の栄誉にあずかった。
目下、2024年の3年連続受賞に向けて、一層の努力を続けている。引き続き、ぜひとも応援のほどよろしくお願いします。
クマさんのような体格で繊細にハサミを動かし、自宅に帰るとネコ3匹を溺愛する美容職人・コンノ。
代官山でのサロンワークに加えて、2023年現在ではYouTuberやTV出演する著名人のヘアメイク等もこなすなかで、休日には愛車で釣りやキャンプやフェスに出掛けていく。
愉快活発・笑門来福。仕事も本気、遊びも本気、いつもどこか自由な空気をまとっている。
今から約20年前の、2003年頃。コンノが美容師を志したのも、きっかけは自由を求めたことだった。
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「昨日観たんだけどこの映画、めちゃくちゃよかったよ。やっぱこの監督まちがいないわ」
中学生のコンノは、片っぱしから映画を観まくっていた。その感想を、映画について深く話ができる親友と都度共有しあう。
映画は、撮影・照明・録音・美術・編集・音響といった無数の部門におけるプロフェッショナルが、自身の持てる知識・経験・技術のすべてをもって、とてつもない工程の作業を踏んで表現して、ようやく創り出される。そのため、「総合芸術」とも呼ばれる。
その魅力に、コンノは夢中になっていた。
1998年。両親、2つ上の兄、7つ下の妹と5人で暮らす地元・宮城の実家のそばには、自転車で行ける圏内にレンタルビデオショップチェーンのGEO(ゲオ)があった。ただでさえ娯楽施設の少ない片田舎で、重宝されていたお店だった。
中学生のコンノには、時間はあるが、お金は無い。映画館は学生料金になるといっても安くはない。Hulu、ネトフリ、アマプラなど無い時代。できるだけお金を掛けずに山ほどある映画を観るには?その結論が、GEO通いだった。
「当日返却すれば、1本100円で借りれる」
なけなしの小遣いで学生が考えることは、皆それほど変わらない。レンタル期間が長いほどレンタル料が高いのだから、借りた当日に返せば最安だ。
返却が夜の閉店時間を過ぎてしまうときは、お店の入口前の、外から投函できる返却ポストを利用。翌日の開店時間までに借りた映画DVDを返却ポストにぶち込めれば、前日中に「当日返却」した扱いになるのだ。
しこたま借りてきたDVDを、夜中まで眠い目をこすりながら、死ぬ気ですべて鑑賞し終えて返しに行く。万がイチ鑑賞中に寝過ごして返却が遅れると、ペナルティの延滞料が発生する。つまりは、同月中に借りれる本数が目減りすることになる。睡魔との戦い。
当日返却はすべてに優先する。真夏の台風も、真冬の大吹雪もお構いなし。全力でチャリを飛ばして、電灯の少ない夜中の田舎道を駆け抜ける中学生コンノ。この頃からすでに爆走してたのか。
ウソのような話だが、年単位でその生活が続いた結果、ふと気付くと新作から準新作、B級映画までジャンルを問わず、文字どおり店内の棚の端から端まで、1本残らず観尽くしていたらしい。
コンノの映画好きは、育った環境からの影響も大きかった。なんと自宅に、音響室があったというのだ。
公務員だった父が趣味で音楽バンドでベースを担当しており、音響室まで作って、音楽鑑賞やらベースのトレーニングに明け暮れていたのだった。小さな頃から、家にはいつもジャズが流れていた。
幼き息子コンノにビル・エヴァンスは特段響かなかった。しかし、大きな予算を費やし音響設備を整えてきた父の趣味部屋のスペックたるや、まさに自宅映画館さながら。こちらが、コンノにぶっ刺さった。
借りてきたDVD映画の世界に大音量で没入し、心ゆくまで味わうことができた。コレは羨ましすぎる。
あらゆるジャンルの作品をむさぼるように吸収し、映画界への造詣を深めていったコンノは、自身の映画道を究めんと一心不乱に突き進んでいく。
…かと思いきや。実際にはもっと早い時期の小学校時代から、長らく取り組んでいたことがあった。こちらは打って変わって、サッカーだ。
当時からクマさん体型と常人離れした声量を持ち合わせていたコンノは、まるで既定路線だったかのごとくゴールキーパーの役割につく。
本気で練習を積んだ甲斐もあって、地元・宮城のトレーニングセンター(通称トレセン)の大会参加メンバー選考会では、当たり前のように毎年欠かさず選抜メンバーに入っていた。
小学校の頃からめきめきと頭角を現していたが、進学先の中学校は特に選り好みすることなく、当時の学区制にしたがって、自宅からほど近い公立中学校に入学。楽しくサッカーがやれればそれで良かった。
さっそくサッカー部を見に行くと、奇しくも3年生の代が全国大会へ出場したばかりのタイミングで、部内のみならず学校全体で大いに盛り上がっている時期だった。
満を持して入部したコンノは、中学校の部活動と放課後のトレセン選抜チームの2本立てでハードな練習をこなしながら、さらに実力をつけていった。
結果としてコンノの学年では、残念ながら全国大会出場の夢は叶わなかった。
目立った成果を残せず悔しい思いはしたものの、映画とサッカーに満ち満ちた毎日が、コンノの中学校生活を何物にも代えがたい充実したものにしていた。
「好きにやんなさい」
両親は、コンノが次男だったこともあってか、やりたいことに対しては否定も干渉もいっさいしなかった。コンノは当時を振り返って話す。
「自由気ままにのびのびやらせてもらってたのは、本当に感謝してるね」
やりたいことをやりたいだけ、とことん突き詰めていく姿勢。当時からそれが、コンノの生き方だった。
悲しいお知らせだが、世間一般的には、学生の本分は学業ということになっている。
高校受験模試での志望校判定では、何度受けても安定の「D判定」=「合格圏外」。学校の担任にも、コンピュータが自動生成する模試結果のフィードバックにも、「もっとがんばりましょう」と言われ続けた。
ところが、親御さんもコンノ本人も、そこは陽気なご家庭っぷりを発揮したのか、万が一に備えるはずの「滑り止め」の学校はいっさい受験しない方向性を最後までなぜか貫く。強気の一本槍で、D判定続きの男子校(進学校)へ入学願書を提出。なぜだ。
結果として、幸運にも合格できてしまうのだが。いろいろとなんでなのよ。模試の判定は何だったの。
つつがなく受験を終え、高校生活が始まったが、放課後は相も変わらずサッカー&映画ざんまいが続いた。
たまたま偶然で、高校のサッカー部にトレセン時代の精鋭メンバーが多く所属していた(知らずに入部した)ことで、自然と気心知れた仲間と中学時代の「後半戦」がスタートする。
映画のほうも、これまでの蓄積で、女優・俳優はもちろんのこと、監督の名前まで、ひと通りの知見が身に付いていた。映画好きの友達との付き合いも続いていて、意見を交わす時間が日々の楽しみにもなっていた。
そんなこんなで、あっという間に2年の月日が経ち、高校3年にあがった頃。
将来の進路を考え始めたときに気持ちが傾いたのは、サッカーよりも映画だった。
当時は、今ほど邦画は盛り上がっておらず、映画と言えば洋画が中心の時代。多くの洋画に触れてきたコンノのなかで、大きな音を立ててひとつのスイッチが入る。
「英語できるようになんなきゃな」
洋画をあれだけ観てきていながら、コンノには英語がまるでしっくりこなかった。
中学時代に塾にも通っており、そこでも英語は学んだ。その上で、おびただしい本数の映画を観ていた。周りの学生とは比べものにならないレベルの、大量の英文をリスニングしてきたはずだった。
なのに、中学校を卒業する頃になっても、英語の点数は1mmも変わらなかった。
これだけ英語聞いてんのにダメってなによ、と半ばふてくされながら高校生活を送っていたある日。
ついに!その時が来た。
英語に「耳が慣れてきた」感覚。
大量の聞き流しイングリッシュが、ついに実を結んだか!
そして、中間テスト、期末テスト、その次の中間テスト…
不思議なことに、何も変わらない。
あれ?
次こそ来るか、次こそはと何度受けても、英語の点数は、まるで取れない。返された答案用紙を見ると、なんなら赤点。ウソだろ。
実際のところ、「耳が慣れてきた」と思ったことには、なんの裏付けもなかった。つまりは、気のせい。つらい。
ひとつだけ良かったのは、長いプロセスの中で、気付けば英語が純粋に大好きになっていたことだった。
「点数は取れてなくても、好きこそものの上手なれ、これから頑張っていけばイイんだ」
映画への情熱、そして英語への苦手意識の克服(意識だけ)。
これらが噛み合ったことで、高校卒業後の進路として、留学に大きな興味が湧いた。
「アメリカ留学できないかな」
両親とさまざまに検討したが、当然ながら留学には莫大なお金が掛かる。
学校によりけりではあるが、コンノが目星をつけた海外大学では、4年間の留学に当時1,500万程度の費用が必要だった。予算オーバーでNG。
それなら日本国内の大学で、4年間の在学中に海外留学できるところへ行けないか?その形式で留学できれば、学費もいくぶん安く上がりそうだった。
さっそく高校から大学への「指定校推薦」の枠を狙い担任の先生にかけあったが、英語赤点の学生を誰が推薦できるのだ、と一蹴される。ごもっともな話である。
思い返してみれば、中学校~高校の6年間で英語の点数が取れたことが、ただの1度もなかった。なのに、悪びれもせず担任へ推薦依頼書を提出する男。それがコンノだった。若気の至り方がすがすがしい。
これまで楽しく自由に、大過なく歩んできた学生時代だったが、さてどうしたもんかな。そんなふうにぼんやり考える日々がしばらく続いた。
「自由に生きていける仕事に就きたいな」
いろいろな選択肢を模索した末、1つの職業がコンノのなかで候補に挙がる。
「…美容師になるか!」
美容師なら、がんばっていったら海外につながる道もあり得るんじゃないか?国内・海外を問わず、美容業界に進んだら、ゆくゆくは芸能や映画関係の仕事に関わるチャンスだって巡ってくるかもしれない。これだ!
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のちの人生を大きく左右する決断というのは、案外このくらいシンプルな勢いやノリだったりする。なんだって、やってみないと分からない。時の運という言葉もある。
しかし。
もう少し後になって、コンノは思い知ることになる。「美容師=自由」と考えたのはあまりに短絡的だった。