「あの頃はアホほど騒いで、アホほど笑ってた。熱かったな」
そう話すMaruの口元はいつも以上にほころんでいて、真に迫るものを感じる。
そのときの空気の匂い、窓から入る光の明るさ、イヤフォンから流れていた音楽、友達と交わしていた会話の一言一句。静止画のまま、昨日のことのように鮮明に思い出せる景色。
誰にもひとつやふたつは、そうしたノスタルジーに浸れる思い出があるのではなかろうか。
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1997年が明けて間もない頃。
下北沢でのクラブイベントを成功裏に収めたMaruとチームメンバーは、翌日1日をそれぞれで自由に過ごせることになっていた。
Maruはその日を、表参道の美容室3~4軒の見学に充てたのだった。1番の目的は、他でもない、雑誌で見たKさんのヘアサロン。
地図に弱いため少し早めに付近まで着いておいて、約束の時間ぴったりにお店のドアを開ける。
これほどまでに人に憧れたことなんてなかった、20歳のMaru。このときばかりは緊張で心臓の高鳴りが止まなかった。
受付で案内されて、どのくらい待ったか。ついに奥から出てきた。あの人だ。
まず、風貌の格が違う。明らかにオーナーと分かるオーラを全身から発していた。服装はもちろんのこと、表情、仕草、歩く姿のすべてに魅力をまとっている。
男も惚れる男。
Kさんの下で美容師をやりたい。この店を日本一にしたい。心の底からその思いが沸きあがった。そう思わせるほどの何かがKさんにはあった。
「このお店で美容師をやらせてもらえませんか」
単刀直入にそう切り出すと、Maruはこれまでの経緯をひと通り話した。
家族に降りかかった不幸、稼ぐ力をつけると決めたこと、夜間の通信教育で美容師免許をとろうとしている最中であること、目標としていた資金がトリプルワークでほぼ集まったこと。
「で、いつ履歴書もってくるの?明日、ちょうど採用面接あるよ」
渡りに船とはこのこと。
中途採用のみと謳っていたKさんのヘアサロンの採用に、美容学校すら出ていない、新参の若造が食い込もうというのだ。これほどの幸運があるか、と心が躍った。
クモの糸はつかんだ。
このチャンスをものにしなかったら、次は無い。
Maruは見学を終えると即座に直近のコンビニで履歴書を買い、ファーストフード店に入ってすべての記入欄を埋め、ものの1時間でKさんのサロンへ舞い戻り、履歴書を提出した。
そして翌日。
面接室に入ると候補者はMaruを含め5人。一人ずつ順番に自己アピールするように言われ、最後にMaruの番がやってきた。
「美容師免許は無いんですけど、すぐ取れますし、長く土方やってたので、根性と体力は誰にも負けません」
客観的に見れば、新潟の田舎から出てきたイチ候補者に過ぎない。
募集が掛かっていたのは即戦力になる美容師のみだったため、もちろん他の応募者は東京の他のサロンから移ってくる、鳴り物入りの猛者ばかり。
雑誌全盛の時代。最先端の情報が発信される美容雑誌に載った表参道のトップサロンには、腕に覚えのある美容師が我こそはと集まってくる。
そんな応募者の中にあって、Maruは美容の技術面で言えば、まさに下のなかの下。それは誰の目にも明白だった。
そんな人間が、空前のカリスマ美容師ブームに揺れる東京の、しかも「美容のメッカ」である表参道にある、時代を切り裂いて現れたトップサロンの面接で、啖呵をきった。
「練習を重ねて、絶対にここにいる他の誰よりもうまくなれる自信があります。あしたのジョーみたいに、真っ白になるまでやりたいです」
その瞬間のMaruは知る由も無かったことだが、美容ブームの時代において、Kさんはつねづね口癖のようにこう言っていたという。
「根性のあるやつが欲しい」
候補者ひとりひとりの美容技術の高さは大前提だった。でもその一方で、それぞれの気骨の部分を見ていたのも確かだった。
結果は、即採用だった。
やった。。。
考える間もなく、控え室で待機していたMaruは、Kさんから呼び戻された。
「すぐ働き始めていいよ」
「えっ…でも家とかは」
「サロンに泊まればいいじゃん」
そうか。
屋根があれば十分だ。
何よりもまず、周囲との圧倒的な実力差を埋めなければならないMaruにとって、心から憧れたサロンに寝泊まりして練習三昧の日々を送れることは、むしろ好都合だった。
公園生活で底辺は味わった。あとは登るだけだ。
つらいかもしれない、厳しいかもしれない、怖い、どうしよう、といったような感情は、不思議とまったく無かった。積み重ねの努力は、昔からMaruの持ち味だった。
どれほど道が険しかろうが、覚悟はできていた。
「そうします」
その日から、MaruはKさんを「親方」と呼び、人生の目標として目指していく。
住む家すら決まらないまま、Maruは新潟を飛び出すことを即断即決したのだった。
(※冒頭の画像左は同期と話し込んでいる当時のMaru本人)
行動し、アピールし、決断する。これらの早さが化け物じみている。しかし、おそらくそうでもしないと、他のたくさんの候補者に埋もれ、採用は勝ち取れなかったのだろう。
現実に、集団面接を共にした他の4人の候補者は、入社後に探しても見当たらなかったという(Maruと席を競う場に当たるなんて不憫すぎる)。
入社の切符をつかむために、あえて目立ちアピールし、できることをすべてを最速で行動に移した。
ひとつひとつの行為に打算はいっさい無く、心底このヘアサロンに入りたいと願うMaruの情熱そのものだった。
そうして持てる限りを尽くしている人間からは、全身からほとばしるエネルギーが出るもの。それが親方にも伝わったのかもしれない。
「とりあえずさ、その歯じゃお客様の受付すらできないから。歯直しな」
その面接の少し前、1996年の年末。
気心知れたクラブイベント仲間と、年越しの時期に羽目を外して泥酔したMaruは、なんと翌朝起きると上の前歯を丸々3本、折って失っていた。
何がどうなってそうなったのか、1mmも憶えていなかったし、痛みもそれほど無かった(なぜ無い)。
当然ながら歯を直すお金などあるはずもなく、歯はそのままにして、モヒカンヘアに赤のタイトなストレートパンツを穿き、面接に臨んでいた。
漢気のあるKさんは、なんと歯を直す資金を貸してくれた。
Maruは当然、稼いだのちに返済するつもりでいたが、結局は最後まで返さずじまいになってしまったらしい。
サロン入社を決めていちばん最初にKさんにおごってもらったのは、食事でもお酒でもなく、前歯だったのだ。
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「よく思われようとか本当にいっさい無くて、純粋にかっこいいと思ってた。その上で、実績すらなかった自分を信頼して採ってもらえたわけだから。これはもう、絶対にこの恩義に報いようって決めてた」
念願を叶え、ドラマ以上にドラマチックな入社を果たしたMaruは、親方のもとでまさに「修行」と呼べるような壮絶なトレーニングをスタートするのだった。
親方 — 美容師 Maru ⑨
3月 29, 2024