「子どもの前でけんかしてんじゃねぇよ!」
2000年頃、鹿児島の片田舎。
父と母がいつものようにまた言い争いを始める。3つ下の妹もそばで見ているのにまたコレだ。少しは気配りできねぇのか。
あまりに腹が立ったので、みかんが5~6個入った食卓のザルを親2人めがけて投げつけてやった。両親はあっけにとられている。仲裁はうまくいったが、居たたまれないから、そそくさと自分の部屋にこもる。
あーあ、もう。
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KiRiKo、当時10歳。一家全体で口げんかの絶えない、やんちゃな家族だった。たいていは相手を思うが故の言い合いだったりするので、仲が悪いというわけでもない。
学校にあるような約25m長のプールにビニールハウスがかぶった形状の、魚介の養殖場。両親は、そこで魚を稚魚から育て、販売する稼業を営んでいた。自営業のため休みも無く、いつも忙しそうだった。
父親は基本的に言葉数が少なく、まして「ありがとう」なんて決して言わない「ザ・九州男児」で、いかにも逆らってはならない厳格な一家の主という雰囲気。小さな子どもの目には怖かった。
しつけに厳しく、食卓では家族全員、イスの上に正座して食事していた。この「イス」は、地べたに置く座布団や座イスではなく、なんとダイニングチェアだそうで、光景をイメージするとなかなかに激しい。
2つ上の兄は、そんな父を見て育ったからか、あまりしゃべらない割に、やたらと口が悪く高圧的で、やはり怖い。尚且つ、末っ子でお嬢様気質の妹と5つも年齢差があるのに、大人げなくしょっちゅう言い合いをしている。やむなく、2番目のKiRiKoが間を取りもって場を収めていた。
兄には逆らえずにいたが、仕事で手いっぱいの両親は、子どもはそこらで遊んどけと言わんばかりの放任主義で、小さい頃から、KiRiKoは男友達と遊ぶ兄に子分みたいにくっついて回っていた。秘密基地を作ったり、川で遊んだり、木登りしたり。身体を動かすことは好きだった。
クラスでも快活なほうではあったが、小学校も高学年になると、部屋の模様替えや改造、また植物での工作に目覚めたりなど、空間やモノを「作り出す」ことに夢中になる。
中学生になると、こんどは我流で洋服のデザインを描いてみたり、要らない服を自らミシンでリメイクしたりなど、服飾の世界にのめり込んでいく。ジーパンの縫い目をほどいてスカートに作り替えたり、着られなくなったトレーナーをオリジナルのトートバッグにしたり。
「流行りモノより、一点モノ」。オリジナルを作り出すプロセスが、至福だった。
同世代の友達が見ているドラマや音楽といった世の中の流行には、あまり興味が無かった。また、勉強には一切興味が持てず、そっちのけ。塾にもいかず、ピアノやお習字も始めたことがあったが続かなかった。
自分の意思や好き嫌いはハッキリしているほうで、わかりやすく反抗期が来て、言葉遣いもわりと激しかった。
中学生の早い時期から、決意は固まっていた。
「高校を出たら、服飾専門学校に行く」
もう1つ、外遊びで身体を鍛えたおてんば女子のKiRiKoが、中学時代に夢中になったものがあった。ソフトテニス(軟式テニス)。スポーツは得意だった。
「えっ、推薦入試って試験受けなくていいの?」
とにかく勉強したくなかった。中学で続けてきたソフトテニスの腕前で、近隣の商業高校のスポーツ推薦入学枠を勝ち取った。
テニスで入学するからには、学校からもテニス部での活躍を期待される。KiRiKo自身、テニスは「やると決めたのだから、やり抜く」と覚悟していた。
ところが、テニス部への入部早々、厳しい現実を目の前に突き付けられる。
県大会常連校として、地域では強豪に数えられていたそのテニス部は、AチームからFチームに分かれていた。上から順にAチームが1軍、Fチームはみそっかすだ。
KiRiKoはというと、Fチームの3番手ペアとしてスタート。部内での実力は、下の下の下。井の中の蛙が、世間の広さを思い知らされた。
コートは全部で6面あったが、Fチームの使う面は一番遠く、コーチからはいっさい見えない。要するに、Fチームの様子など見るまでもないということなのだが、他校が来て対抗試合など行なわれると、試合結果だけがコーチへ提出される。
「何やってんだ、お前は」
見るも無惨な得点差。それだけで判断され、罵倒される。実力不足は、自分が一番わかっている。内容も見てなかった人間に言われたくない。悔しい。
当時の運動部は、年功序列の上下関係が当たり前だった。掃除、水汲み、球拾いなどはすべて1年生の仕事。先輩方には、絶対にそんなことをさせてはならない。
なおかつ、1年は練習メニュー素振り、ランニング、筋トレが中心。コートに入ってボールを打てる時間は短い。
そんな環境下で、KiRiKoはドベのFチームで、多くいる部員に埋もれ目立たずにいた。現実はすぐには変わらず、向ける先のない悔しさに唇を嚙む日々が続く。
KiRiKoは腐らなかった。パシリだろうが雑用だろうが、自分に今できることはこれしかない。
やり抜いてやる。這い上がってやる。
外遊び中心の幼少期を過ごし、身体は弱くなかった。上から罵倒される屈辱にもいくぶん耐性があった。文字どおり雑草をかき分けて駆け回っていたKiRiKoには、雑草魂が根を張って育っていた。平たく言えば、「根性」だ。
「お、気が利くね」「よくやってるな」
そう言われることが増えた。成り行きで、選手兼マネージャーのような立ち位置になっていた。
部活の遠征時にも、掃除、水汲み、球拾い。加えて、休憩中には顧問の先生からメニューを聞いてきてチームに知らせる、伝令係。あーあ、損してるよなぁ。でも、素直に淡々と続けるうち、周囲からの見られ方が変わってくる。
兄とつるんで観察しながら、処世の上手い下手を見てきた。一方で、妹を守り、お世話もしてきた。3人兄妹の2番目らしく、周りを見て動くのはクセになっていた。
その上、学年が上がったことで、先輩方を眺める時間が減り、ラケットを握る時間は増えた。
頭で理解するより、やって身体で覚えるタイプだった。レギュラー陣がボールを打つフォームや、コート内での動き、ペアの選手とのコミュニケーションまで、ひとつひとつをマネして取り入れ、身体に叩き込んでいく。
最初の1年で、仲間もできた。
朝7時から朝練。1・2時間目のあいだの休み時間に、家から持参したお弁当を早々に平らげる。3・4時間目の合間にはカバンのお菓子が無くなり、昼休みには改めて購買のパンを食べる。食べ終わると、同じ昼休み中にテニスの練習。5・6時間目の授業中は当然のように寝る。授業後、いつもの部活に出たあと、自転車を飛ばして市営コートに向かい、夜8時までまたテニス。帰ったら泥のように眠る。
「スキンケアなんかしてられっか」そう言って日焼け止めを塗らずにいた。全身こげ茶、歯だけが白い。同学年112人中110位という成績にはわき目も振らず、夢中になって練習した。
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「ソフトテニス部が強い」という事実は高校の内外に知れ渡っており、学校もそれを売りにしていた。顧問は、校内でもイチバン厳しいと言われていた先生で、生徒指導部の指導監督をしている人だった。
「我々テニス部こそが、学校の模範とならねばならない」と言って、なぜかテニス部の生徒が、朝に校門周辺をほうきで掃いたり、率先してあいさつしたり、ごみ拾いをしたりなどを行なっていた。風紀委員のような存在だ。
最終的に、この先生とKiRiKoは、2023年の今でも連絡を取り合うほどの仲になった。当時から、その先生からはよく言われていた。
「お前がイチバン伸びたな」
遅咲きではあったが、3年生になる頃には、なんと部内トップ・Aチーム1番手ペアにまで上り詰めたKiRiKo。
この記事を書くにあたっての取材で、「ゴキブリのような精神力が身に付きましたよ」と語っていた言葉には、真に迫るものを感じる。
楽ではなかったが、毎日を楽しんでいた。苦楽を共にする仲間に恵まれた。それがKiRiKoの青春を支えてくれたのだった。
こうして、気立ての良い「さつまおごじょ」KiRiKoは高校卒業を迎える。しかし、テニスに打ち込んできたかたわらで、KiRiKoは人知れず悩んでいた。