「実は17歳の頃に、公園で寝泊まりした経験があってね」
1991年のバブル崩壊。それが当時の人々の実感として明確にあらわれ始めたのは、1993年頃と言われている。
翌1994年に日本は本格的な不況の到来を迎え、地価は急降下し、証券会社の不祥事や銀行員の逮捕といったネガティブなニュースがあふれていた。
2024年現在からMaruが17歳だった年を逆算すると、まさにちょうど30年前に当たるこの年、1994年だった。
私自身は当時、何も考えずに校庭を駆け回っている年頃だった。両親がバブルどうこう言っているのを聞いた覚えはないし、その意味では人並み程度には恵まれた家庭だったのだと思う。
よほどでなければ、わざわざ小学生の子どもにそんなこと言って聞かせようとしないのが普通の親心というものだろう。
それでも、同年のオウム真理教による松本サリン事件の映像は脳裏に焼き付いているし、その年にリリースされ一世を風靡した Tomorrow Never Knows は、カラオケに行けばいつでも歌える程度には記憶に刻まれている。
国内が深刻なコメ不足に陥り、食卓のご飯がタイ米やブレンド米に置き換わって母親に文句を垂れていたのも、今では懐かしい思い出だ。
そうして、私が当たり前の日常を過ごしていた一方で、Maruの家族は新潟の公園で顔を洗っていたというのだ。
どんな経緯があったのか。少しくわしく話を聞いた。
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1994年から少し遡った、1982年。Maruが5歳の頃、Maruの両親は地元・新潟で呉服屋を創業した。
着物は贅沢品。今でこそ着物レンタルやカジュアルなものも増え、数千円~数万円で手に入るものもあるようだが、それでもデパートで購入する場合の相場は20万~200万。
開業当初はその敷居の高さから一部の客層にしか販売が叶わず、苦しい生活が続いていた。
ターニングポイントとなったのが、1986年から始まったバブル景気だった。
1988年頃から一般の人々にも好景気の実感が生まれ、OLや大学生もルイ・ヴィトン、シャネル、エルメスといったハイブランドを当然のように身にまとい始めていた。
高級な着物もどんどん売れるようになり、事業は軌道に乗った。1990年には、田舎の借家から都心部へ住まいを移せるまでの大きな売上を生み出すようになっていた。
陸上やマラソンに打ち込んできた経営者の父は、自らに厳しく、またMaruや7つ離れた妹のしつけにも非常に厳しい人だった。
小学4年生のときにMaruが野球でピッチャーを始めると、父は自宅裏に練習スペースを設営し、厳格な門限どおりに帰宅してくるMaruに徹底的に自主練を積ませた。中途半端は許されなかった。
中学生になると、学業面もおろそかにならないよう家庭教師もつけた。
学校から帰って、家庭教師との勉強が終わったのち、父がパーソナルコーチになり夜23:00まで野球の練習に明け暮れる。肉体的・精神的に追い込まれ、泣きながらやる日もあったという。星一徹みがある。
「自分のルーツは、父親とのトレーニングにある」とMaruは話す。熱心な指導を通じてピッチャーとしての腕を磨き上げ、いつからともなく、全身全霊で野球に打ち込むようになっていた。
父の影響を強く受けて育った兄は、7つ下の妹にとってはシンプルに恐怖を感じる存在だった。年齢がこれだけ離れていて、性別も違えば体格も違うのだから当然かもしれない。
でも、遊びにいつも創意工夫を持ち込むMaruといっしょに遊ぶのは、なぜだかとても楽しかった。語気の強い兄貴にしょっちゅう泣かされながらも、近所の友人から慕われるガキ大将だったMaruにくっついて回っていた。
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1992年の高校入学後も、とにかく野球一色。毎日のように練習しては泥のように床に就く。
気力・体力に満ち溢れていた。
こんな日々が、これからも続いていく。
当然のようにそう思っていた。
しかし、高校3年生になったMaruが、高校最後の夏の甲子園の地方予選に向け準備を進めていた頃、ついに事は起こった。
父から家族に、ある夜に突然言い渡される。
「全員、荷物をまとめろ。車に乗り込め。逃げるぞ」
父と母、17歳のMaruと、10歳の妹。
家族4人で、家を出なければならない。
何が起こっているのか、理解が追いつかない。
「学校は?野球はどうなる?」
まぁ2~3日もすれば、また自宅に帰れるだろう。大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせた。
心の底では事態の重大さに薄々感づいていながら、その不安を強引にでも抑え込まないと、自分を保てそうになかった。
気付けば、公園での生活が始まって1週間が経ち、2週間が経っていた。
車のなかで寝る。飯ごうで米を炊き、1個の缶詰を4人で分け合う。公園の蛇口で顔を洗い、身体を拭く。
そうして公園から公園へと移りながら、とにかく北へ北へと向かっていた。
公園に住み着くことは、そもそも法律や条例で認められていない場合が多い。人目につかないよう、昼間に移動し、日が沈んだら公園を見つけて、夜を公園で過ごす、というサイクルだった。
運の悪いことに、同じ頃に長野県で発生した松本サリン事件の影響で、隣接する新潟県においても警戒が強まり、通常よりずっと多くの警官が夜の見回りに配置されていた。
そんな折に、公園に車を止めて寝泊まりしている家族がいたら怪しまれないわけがない。なおさら、同じところに長時間とどまらないよう、移動を続けねばならなかった。
あるときには、警察の目をうまくかいくぐれず、父が職務質問を受けそのまま警察署へ連れていかれ、そのまま朝まで帰ってこないようなこともあった。
「どうなるんだ、これから」
慣れない生活と栄養の不足から、心身とも日に日にすり減っていく。もはや膨らみ続ける不安を内に留めておけなくなり、夜が来るたびに恐怖に襲われた。
今までの生活に戻れる日は来るのか?
決して親には聞けない。Maruは自問自答をぐるぐると繰り返すしかなかった。
いま直面しているこの状況は、紛れもない現実。
これまで自分は何をしてきた?
この家族の一大事に、自分に何ができる?
…
何もできない。
自分はこんなに、何もできなかったのか。
毎晩のように、無力感に打ちひしがれた。
そんな暮らしが続くなかで、ついにMaruの父は苦渋の決断をくだす。
「子どもにこれ以上、こんな生活を経験させ続けてはいけない」
逃げるのは、両親2人だけで良い。子ども2人は、人に預けよう。
この日、家族は離ればなれになった。