「学園長から学生まで、当時はかなり個性派 、というかキワモノぞろいの学校でした」
昔のことを思い出しながら語ってくれる口振りは、決して饒舌ではない。でも、等身大で気取らない、実直な人柄、随所にお客様への真心がにじみ出てくる。こんな美容師さんにヘアカットをお願いしたいと純粋に思う。
「いま思えば、小さい頃から一点モノの服作りが好きだったのも、自分がそういう人間になりたかったから、なんですかね。変わりモノになりたいふつうモノ、でした」
トガりたい。個性を手に入れたい。その憧れが、当時のKiRiKoを突き動かしていた。
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「変わるなら今だ」
普通な自分を変えられそうな、個性派ぞろいの専門学校に自分を放り込んだ。学生それぞれの自主性次第で、突き詰めて厳しい道を選んでいける、良く言えばいろんなチャンスをつかめる、そういう風土がある場所だった。
「やれることは全部やる」
当初は予定していなかったヘア施術関連の学科・実技の授業も、もちろんすべて取った。
生徒会に立候補し、全校生徒の前で演説。投票で、副会長に選ばれた。もちろん目立ちたかったわけではない。自分に鞭を打つためだった。
学科試験の合格ラインも厳しかったが、学校が夏休み期間に入っても、KiRiKoは休まず強化チームに参加して、朝から晩までパーマの実技特訓を重ねた。
また、自ら手を挙げ、米国ロサンゼルスでの短期研修で美容技術と特殊メイクを体験。両方の技術を、いっぱしの生徒並みに磨き上げた。
機会は平等にある。つかむか、つかまないか、それはいつだって自分の選択。やってうまくいくかは分からない。でも絶対に、やった人にしか見えない風景がある。自分の自信を作れるのは、自分だけ。
やさしい道と険しい道が選べるときは、後者を選ぶと決めていた。ひとつずつ確実に、自信は積みあがっていた。
あまりのひたむきさに、話を聞きながら何度も目頭が熱くなってしまった。誰にだって一度や二度は、「何者かになりたい」「何者でもない」と自問自答した経験があるんじゃないだろうか。
ただひとつ疑問があった。テニスと言い美容と言い、こんな努力を、これほど長期にわたって、ひたすら継続できるものだろうか?なぜ、ここまで躍起になれたのだろう。
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卒業を間近に控えた頃。在学中の2年間、ずっと特殊メイクの仕事を夢見てきた一方で、KiRiKoは美容師試験に手堅く合格。美容師免許 (国家資格) を取得する。
ときは2006年、ガラケー全盛期。YouTube日本語版サービスが開始したのは、この後の2007年のこと。iPhoneの日本発売は2008年。オンラインに今ほどの情報量は無く、探したい内容を見つけるのも簡単ではない。
「特殊メイクをやるなら、ぜったい東京か海外だ」
そう思っていたものの、そもそも特殊メイクの働き口自体、多くはない。英語力も無ければ、日本を飛び出すほど豪胆でも無かった。
人並み以上にがんばってきたつもりだったが、経験もコネも「専門卒の学生」以上のものは持っていない。
でも、少しでも海外に近づくなら?どうしたって東京だ。必然的に、ヘアサロンへの就職に目が向いた。
「美容師の世界から、特殊メイクの道を目指すこともできるはず」
そして美容師になるなら、本場・表参道。専門学校の仲間と一緒に、東京へサロン見学に向かった。
2〜3件の見学を終えて、人混みでにぎわう原宿の小道を歩いていたときだった。視界の端に、恐竜の顔が飛び込んでくる。
何だコレは…
出会ってしまった。店先の人材募集のビラで、人間のヘアスタイルをかぶった、恐竜の顔が吠えている。こんなキャッチーな特殊メイクを打ち出してるヘアサロン、見たことない。
「ココしかない」
ときめいてしまった。ユニークで風変わりな、一点モノ。即座に電話して入社を申し込むと、とんとん拍子で面接日程が決まる。大反対の母に対しては、福岡暮らしの実績をもとに、ゴリ押しでなんとか自分の気持ちを伝えきった。
そして、入社面接に無事合格。翌2007年、20歳でアシスタントとして美容業界でのキャリアをスタート。
この大手サロングループこそ、他でもない、Maruが重役を務めているグループだった。当時、表参道だけでなんと4店舗。この快進撃が、より全体のイケイケムードを盛り上げていた。
ただし、それだけの業績を打ち出し続けるサロンともなれば、社内の育成システムも並大抵ではない。
業界全体に知れ渡るほどの厳しい指導・研修。スタート直後わずか3か月間の試用期間に、30人いたはずの新入社員は10人まで減っていた。
当然のように長時間行なわれる施術トレーニング、夜中まで続くミーティング、社員寮に帰ると1部屋に美容師12~13人でぎゅうぎゅうになって雑魚寝する日々。
薄給だったのは言うまでもなく、営業日にはプライベートなど一切ない。長く付き合っていた人とも時間が合わなくなり、やがて疎遠になりお別れすることになった。
また、入社早々の若造に「週休○日」などもちろん無い。39℃の高熱が出ようとも、それを隠して出社した。実家の祖父の訃報にも帰らなかったことは、当時からずっと後悔している。
「厳しい」と思ったが、これが東京の厳しさなのだと自分に言い聞かせた。これで良い、厳しいほうが逆に燃える。ぶっとんだヘアサロンだと分かっていて、自分が選んで入社したんだから。自分への意地とプライドもあった。
もし途中で挫折して地元に戻ったとして、「やっぱ東京って厳しいんだね」なんて言われてみろ。そんなの絶対に嫌だ。
激務のあと、夜中の帰り道で自転車をキコキコ漕いでいる時間だけが唯一、一人になれる時間だった。漕ぎながら毎日泣いていた。
「早く今日が過ぎてほしい。でも明日は来ないでほしい」
そもそも、特殊メイクを将来やるために入った業界なんだから、ここまで突き詰めて美容師やらなくたっていいか。
ぜんぶ捨てて楽になろうとする自分に、何度も飲み込まれそうだった。
だが、今にもプツンと切れそうになっていた気持ちの糸を、ずっと繋ぎとめていたものがKiRiKoの奥底にはあった。