18歳の頃、「自分は親や周りの人々に生かしてもらっている」という事実を、身をもって味わったMaru。
これが大きなきっかけとなり、「精いっぱい人の力になれる、喜んでもらえる仕事」を志し、美容師になることを決心した。
2024年現在、今でもこの思いをもって、Maruは都内5店舗のサロングループを運営している。
「お客様に喜んでもらう」美容を提供するという大前提のうえで、各店で仕事に取り組む「美容師にも喜んでもらう」ことも、当然ながらしっかりと念頭に置く。
それを実現するための工夫のひとつが、5店舗すべてにおいて「ワンオペ個室サロン」というコンセプトを貫いたことだった。
すべての店舗が2020年以降、コロナ禍、世界各地での紛争、急激な円安など経済情勢の変化が絶えないなかでの出店。
にもかかわらず短期間で出店を重ねることができたのは、通常1,000万~1,200万程度の資金が掛かる開業費用を、すべての店舗について300万円以下に抑え込んだことが大きい。
これには何より、各店オーナーが膨大な借金をせずに出店できる形にしてリスクを抑え、その上で各店オーナーへ少しでも利益を大きく還元できる仕組みを作りたい、という意図があった。
人に生かしてもらった恩を、今度は周囲へ還元していかねばならない、と話すMaru。
「だって、TUMUGUでやっていくと決意してくれたんだから。当たり前のことだよね」
人生においての価値観が大きく揺さぶられた、18歳での出来事。
しかしMaruの上京は、18歳の高校卒業から20歳になるまでの約2年のあいだに動きに動いて、とにかく行動を重ね尽くした結果だった。
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1995年。
壮絶な経験ののち友人一家のもとへ迎え入れてもらった高校3年のMaruがまず考えたのは、自ら身を立てることだった。
「ハサミ一本でいつでも人のお役に立てる、美容師になる」
元々ファッションが好きだったこともあって、美容師という選択に迷いは無かった。もとより、昔から決めたらすぐに行動に移すタイプだった。
Maruが通っていたのは普通科の高校。まずはアルバイトをしながら、夜間の通信教育で早々に美容師免許の取得を目指す。
合わせて、片っ端から美容雑誌に目を通し、少しでも時勢の理解に努める。なんでも同時並行。これもMaruの得意とするところだった。
やがて、東京に拠点を置く大手ヘアサロン系列が新潟に出店する、という情報をキャッチ。オープンに合わせ、さっそく足を運んだ。
「サロンワークの現場を見られる場所で働きたいんです」
熱意が伝わり、どうにかこうにか受け入れてもらったが、当然ながらまずは雑務担当からのスタート。文字どおり0から学んでいくこととなる。
新潟の地でも一躍脚光を浴びたこのヘアサロンで、Maruの仕事に対する姿勢を買ってくれ、面倒を見てくれたのは、Sさんだった。
この人こそ、右も左も分からないMaruの人間性を評価し、いちばん最初に導いてくれた、まさにMaruの心の拠り所となった人だった。
Sさんは、トレーニングに気を抜かず懸命に打ち込む姿を見て、Maruの本質を理解し、ああしろこうしろとうるさいことをあえて言わなかった。
サロンの内外で何をするにおいても基本的にMaruを信頼し、自由にさせてくれた。これがMaruにとっては非常に大きかった。
器の大きな師がしっかり背中にいる安心感で、やるべき仕事はしっかりと行ないながらも、夜は遊びに出て過ごしたいように過ごすことができていたのだった。
とはいえ、ただ遊び呆けていた訳ではもちろんなかった。そんな余裕は無い。
1995年~1997年といえば、90年代に入って花開いたクラブミュージックが大きな盛り上がりを見せ、日本各地に広まっていった時期。
ハウス、R&B、ヒップホップ、テクノ、ドラムンベースなど音楽が様々なジャンルへ細分化し、こうした流れがDragon AshやMISHA、宇多田ヒカルといった90年代後半のJ-POP黄金時代にもつながったとも言われている。
こと新潟においてもそれは例外ではなく、「クラブ=お洒落でかっこいい場所」というイメージが広く浸透していた。
SNSなどまったく存在しない時代。お洒落やファッションに触れるには、雑誌を読むか、感度の高い人々や情報が集まる場所に出向くしかなかった。
稼ぎはほとんど無かったが、お洒落やファッションに触れるために少しでも多く通うことを心掛けた。なるべく美容師の知り合いをたくさんつくって、美容業界の情報集めにも精を出した。
頻繁に通い詰めていくにつれ、しだいに周囲に顔が覚えられ始めていく。やがて、DJイベントを開催するグループから、「いっしょにやらないか」と声を掛けられた。地域で最も大きなイベントグループだった。
数百人規模のクラブイベント主催などを通して、輪はどんどん広がった。少しずつ人間関係を深めるなかで、ファッションや流行に対する知見やセンスもどんどん洗練され高まっていった。
面白いことに、この頃の人とのつながりや経験が、のちにMaruの上京に活きることになるのだった。
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そんなふうに過ごしながら、1年半ほどの月日が経った頃。
Maruのなかに、少しずつザラザラとした違和感が芽生え始めていた。
「新潟と東京のあいだに、明らかにズレがある」
少なくとも新潟では最先端と思える場所に身を置き続け、さまざまな情報にアンテナを張ってきて、知らず知らずのうちに疑念が湧いてきていた。
果たして、このままココでこうしていて良いのだろうか。
全身全霊をかけて日々を生きている自負はあった。でも今のまま頑張るだけ頑張ったら、先はあるのだろうか?
頑張れば頑張るほど評価されるには、もっと競争の激しい、一流の集まる環境に身を置かなきゃならないんじゃないか。
「表参道にいかないと」
しかし、上京にするにしろ、友人一家にお世話になった分のお金をしっかりと返して、けじめをつけてからだとMaruは考えていた。そのためにも、当時バイトを掛け持ちしてトリプルワークをし、短期間で一気に現金をつくる作戦に出た。
ふとした会話の流れで、工事現場の仕事仲間に表参道に行きたい話をすると、鼻で笑われた。
「何を言ってんだ。ココでこんなことしてるお前に、表参道なんか行けるわけねーだろ」
時代は、カリスマ美容師ブームの真っ只中。
原宿を中心としたエリアの美容室・美容師を、ファッション関連のTVや雑誌がこぞって取り上げ、ブームは過熱の一途をたどっていた。
各地の美容専門学校では美容師に憧れた入学希望者が殺到。一部、競争率が10倍以上になる学校さえあったという。
しかも、やっとの思いで入学・卒業して美容師免許を得たとしても、人気の高いヘアサロンへの入社もまた当然のごとく高倍率になり、採用されることも一筋縄ではいかない状況であった。
大手ヘアサロン系列ではこの時勢に乗り新卒採用を行なっていたようだが、小~中規模サロンをみると、新卒生を取らず中途採用にしぼっている店舗も多かった。
ここでの「中途採用」のメリットというのは、「基本的な施術の技術をすでに身につけているから」という理由もあったが、それは建前であった。
生々しい話、「すでに持っている顧客様を連れてきてくれるから」というのが各店の本音だったのだ。まさに血で血を洗う、お客様獲得競争の時代だったことがうかがえる。
さらには、顧客様を持っていて中途採用で入ったにもかかわらず、スタイリストとしての即時勤務開始は許されず、まずはアシスタントからスタートさせられる、というケースもあったらしい。
どの業界においても上下関係のルールが厳しく敷かれていた当時、新入りがいきなりお客様をカットするな、ということなのだろうか。なかなかにエグい。
そんな時代にあろうと、周りから馬鹿にされようと、Maruにはまったく関係なかった。決心はまるで揺るがなかった。
日々の仕事や人脈づくり、情報収集に明け暮れ、チャンスをひたすらに探し続けていた。
ある日、いつもと同じように美容雑誌を読んでいたところ、ひとつの記事が目に留まった。
「東京・表参道のトップサロン特集」に、まさに時流をつかんだ新進気鋭の人気店がいくつか紹介されており、そこに各店オーナーの一言コメントが綴られていた。
「この人は…明らかに何かが違う」
同じ新潟出身で、Maruとたった4歳しか変わらないKさんという名の経営者に、完全に釘付けになった。写真のなかの装いだけ見ても別格のオーラを放っている。
急激に実績を伸ばし頭角を現した、表参道の中堅サロンを率いるその人の「人を育てるって本当に難しいものですね」というメッセージに、なぜか深い奥行きを感じずにはいられなかった。
このとき、Maruの当面の目標が定まった。
「この人に直接会ってみたい」
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1997年初頭。Maru高校卒業から2年が経とうという頃だった。
「うちのクラブまで出張DJに来てもらえませんか」
まるで何かの導きかと思えるタイミングで、東京・下北沢のクラブから、Maruの所属していた新潟のクラブイベントチームに声が掛かり、東京出張が決まったのだ。
Maruの属していたイベントチームもまた、東京からイベントの依頼が掛かるほどに、着実に勢いをつけてきていたのだった。
このイベントの翌日に、東京都内での自由行動の時間を確保できたMaruは、この機を逃すものかと、表参道の美容室3~4軒へ事前に見学を申し込んだ。
「あの人に会えるだろうか」
表参道をこの目で見られる高揚感を抑えきれないまま、Maruはついに新潟を後にした。
90年代 — 美容師 Maru ⑧
3月 20, 2024